競馬を見だして、かれこれ50年以上。
競馬を知るきっかけはタニノムーティエだ。
これだけ長く競馬を見ていると記憶に残るレースは数多い。
明日行われる日経新春杯。
日経新春杯が近づくと、私は必ずテンポイントの悲劇を思い出す。
こういった悲しい出来事は出来るだけ書かないようにしているが、テンポイントについては、あのレースに出ていなかったら・・・という思いが未だに強く、マウスが動いてしまうのだ。
ー今回の記事は2019年1月13日にスポーツナビに投稿した物を加筆編集して再投稿していますー
明日は日経新春杯が行われる。
この時期必ず思い出すのがテンポイントの悲劇。
テンポイントの経歴はご存知の人が多いと思うので詳しくは触れない。
言えるのは名馬という枠を超えた、記録にも記憶にも永遠に残る存在ということ。
テンポイントはデビュー時から関西では大きな期待を持たれていた。
(当時は関東馬が強い時代で、今のように大レース以外の交流はなかった)
クラシックレースでは惜敗が続いたが4歳(現在の馬齢表記)になって大きく成長。
天皇賞春を制し、暮れの有馬記念で宿敵トウショウボーイに勝利。
このレースでは、他の馬は眼中にないかのような正にマッチレースの様相だった。
年度代表馬にも選出され、名実ともにトップホースとなったのだ。
海外遠征が決まり、壮行レースとして出走したのが日経新春杯だった。
当日の転向は雪。
およそ競馬が開催されるような天候ではなかった。
テンポイントに与えられたハンデは実に66.5kg。
今では考えられない酷量だ。
何故こんな酷量で出走したのか。
後悔先に立たず・・・。
レース翌日、昭和53年1月23日(月曜日)の新聞。
↓ ↓
本当なら、即安楽死の処置がとられても不思議でない大怪我。
それでも何とか生きて欲しいという願いで大手術が行われた。
それから毎日、テンポイントの闘病記が新聞に掲載されるようになった。
一時はヤマ場を越してもう大丈夫という記事も乗ったが・・・。
しかし・・・
上の写真は昭和53年3月6日の新聞。
テンポイントの闘病は社会現象になった。
葬儀も行われ全国各地から多くのファンが集まった。
この闘病は結局テンポイントを苦しめただけではないか・・・。
当時そういった議論も交わされた。
とにかく元気になってくれ・・・と、それだけを願っていた。
多くの競馬ファンもそう思っていたことだろう。
結局その願いは叶わなかった。
しかし私の脳裏には今もテンポイントの雄姿がはっきりと見える。
あれから46年。
医療は進化し、馬場も調教技術も格段に向上している。
それでも、事故は起きる。
私は競争結果を見る時、予後不良の文字が無いことを祈り、それが無ければ安堵する。
今もその繰り返しだ。
最後にテンポイントが一番輝いたレース。
1977年の有馬記念のレースを貼って今回の記事を終えたい。