アントニオ猪木が亡くなった。
映像で流れる最近の猪木を見て予感はあったがそれは突然のことだった。
猪木死去のニュースはどの曲でも大きく扱われた。
今朝(10月3日)のワイドショーも大きく時間を割いて扱っていた。
テレビ朝日はあのモハメド・アリとの世紀の一戦の映像を持っているだけに、どの番組でも使い回して紹介していた。
「元気ですかー!」
「1.2.3.だあー!」
どれだけこのフレーズを使ったり、聞いたりしたことか。
またひとつ私の青春が星となってしまった。
私はジャイアント馬場とアントニオ猪木が日本プロレスという団体で同じリング上に立ち、タッグを組んで戦っていたころからライブで見ていた。
対照的な二人のタッグは今考えても史上最高のコンビだったと言って過言でない。
どちらかというとスローな動きだった馬場に対し(それでも若い頃はまだまだ早かった)スピードあふれる猪木は見ていて気持ちが良かった。
インターナショナルタッグ王者として、多くの外国人タッグチームと戦ったが、猪木は流血することも多かった。
馬場の存在が大きすぎて個人ではなかなかトップとして輝くことが出来なかったが、ある年のWリーグ最終戦で相手のクリス・マルコフに卍固めを決めて初優勝を決めた時は、テレビ桟敷で興奮して飛び上がったことを思い出す。
馬場と袂を分かち新日本プロレスを旗揚げしてからも、多くの名勝負を生んだ。
今のプロレスと違い、当時のプロレスは殺気があった。
特に猪木の試合はそれが顕著だった。
タイガージェットシン、アンドレザジャイアント、スタンハンセン、ハルクホーガンなどの外国人選手。
寺西勇、アニマル浜口(浜口京子のお父さん!)ラッシャー木村と戦った1対3変則マッチ。
藤波辰巳との師弟対決、柔道オリンピック金メダリストウィルヘルム・ルスカ、プロボクサーチャック・ウェップナーとの対戦も思い出深い。
プロレス引退後も政界での活躍や、各種公演などでの闘魂注入のビンタ、赤いマフラーを首にかけて日本全国を回る姿をつい最近まで見続けていた気がする。
年齢を問わず愛され続けたアントニオ猪木。
炎のファイター!猪木ボンバイエが今も私の頭の中で流れている。
合掌