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JRA思い出のレース 1992年日本ダービー ミホノブルボン 血統の壁を破った坂路の申し子

競馬を見だして、かれこれ50年以上。

ブログで幾度か書いているが競馬を知るきっかけはタニノムーティエだ。

もちろん馬券を買える年齢ではなかったが、日曜日のテレビ中継を欠かさず見ていた。

馬券を買いだしたのは社会人になってからで最初は名前で買う馬を決めていた。

その後いわゆるケントク買いにハマった時期もあった。

高本方式の全盛期だ。

2~3冊本を買った(今も捨てずに持っている)。

セミナーにも参加したことがある(笑)。

いまとなっては良い思い出だ。

これだけ長く競馬を見ていると記憶に残るレースは数多い。

 

今回は第4回。

1992年東京優駿日本ダービーミホノブルボン

父はマグニテュード。

血統的に短距離専門と言われ、代表産馬の1頭で桜花賞を制したエルプスも当時マイルは距離的にどうか?と言われていた。

そんなマグニテュードを父に持つミホノブルボンも当初距離適性が疑われていた。

2歳王者(当時は3歳表記)を決める朝日杯を無敗で制したが東上初戦のスプリングステークスで2番人気だったのは明らかに距離不安だったからだ。

しかしレースは逃げ切って圧勝。

クラシック1冠目の皐月賞も距離に対する不安は付きまとったが結果は逃げ切り。

ばてたのはブルボンではなく後続の馬で、直線で突き放す圧倒的な強さを見せたのだ。

血統の壁を感じさせないブルボンの強さはどこから来るのか。

それは前年栗東トレーニングセンターに完成した坂路を使った調教師故戸山為夫氏のスパルタトレーニングの賜物だったのだ。

今でこそほとんどの馬が坂路で調教を行うが、当時は使用する調教師は少なかった。

そんな中、戸山調教師はミホノブルボンを坂路で徹底的に鍛え上げた。

それが距離の壁を超える大きな要因になったのだ。

そして迎えた日本ダービー

父マグニテュードは1200までしか持たないと言われた血の宿命。

それを見事に覆し無敗のダービー馬となったミホノブルボン

貼り付け可能なYouTubeから。

実況は堺アナウンサー。

 


www.youtube.com

 

ミホノブルボンはこの後休養に入り秋初戦の京都新聞杯も逃げ切り。

3冠を目指して挑んだ菊花賞

ライスシャワーに差し切られ2着。

当時テレビで見ていて茫然自失の状態に陥ったことを覚えている。

無敗の3冠は成らず、その後脚部不安により休養。

結果菊花賞が最後のレースとなった。

 

それまで競馬の勢力図は東高西低だったが、こののち時代は西高東低に移っていく。

関西調教師の多くが坂路調教を行うようになり馬が鍛えられたからというのが定説だ。

その後美浦トレセンにも遅れて坂路コースが設けられた。

坂路の申し子ミホノブルボン

戦績は 8戦7・1・0・0

最後まで馬券購入者を裏切ることはなかった。

 

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